考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

幸せとは何か?という単純な問いに対する、極めて単純な答えを教えよう。

最近、ベトナム人留学生が書き綴ったエッセイが新聞に掲載され、それがツイッター上で回ってきた。テーマは「日本人の幸せとは何か?」という、核心をついてくるような内容だ。


さて、読者の皆さんは、どんな答えを出すだろうか?以下は、ベトナム留学生のエッセイである。


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「とても考えさせられます」というツイートで回ってきたが、そういう人は大抵、大して考えずに、考えた気になって思考を停止する。それは、本人の責任なのだが、仕方がない事だ。僕もツイート本人だったら、そうなる。理由はある。

まず、圧倒的に知識が足りないからだ。例えば、幸せのテーマを考えるときに、幸せって何だろう?脳内の快感物質の事?だとしたらどんな外的刺激を受けたら快感物質が最大限になるんだろう?という論理展開ができない。そこには、圧倒的に「知識がないから」であり、現象の奥に潜んでいる本質へアクセスできないからだ。そこで思考がストップする。というか、ストップせざるを得ないのだ。

次に、自分軸で生きていない。自分が不快に感じない生き方をする事こそが、真の人生の送り方であるという事を前提に話せば、彼らは既存の、既製品の価値観で生きている。その正体は、「昭和的価値感」だ。有名大学を卒業し、有名企業に入り、安定した収入を得て、そこで人生の伴侶を得て、子供を作り、定年まで幸せに生きる…というまあできるなら理想的な生き方ではある。できるなら、ね。つまり、彼らは真に生きていない。誰かの価値観で生きてしまっているから、不快を感じてはいるが、それが幸せのために必要なものだと信じてしまっており(実際はもうオワコン、つまり、「神話」だ。それは、両親を見ていればわかるんじゃないだろうか?)、不快を不快として認識できない。必要経費とでもいうか、我慢すべき対象だと思っている。だが、もう昭和的ロールモデルは神話と化したのだ。大きな物語は崩壊を迎え、小さな物語(個人が自身で構築した幸せの在り方、幸せの価値観、幸福論)を展開しなければならない。そのためには、自分の気持ちに正直に生きて、現実を生き延びる。その過程で感じた不快や幸福感が、自身の「本質」であり、幸福の価値観なのだ。まずは、そのコア部分(つまり、本質の本質)を自覚し、それを軸として、本質の見える部分を広げていけば、いいのではないか、というのが、僕の仮説であり、今もなお、いや、人生を賭けて行なっている検証実験である。


前置き?が長くなってしまったが、「幸せとは何か?」という問いへの、僕なりの答えを提示しよう。それは、『一番になる事』だ。コミュニティの頂点に立つ事と言ってもいい。どんな分野であれ、この世で一人しか存在しないはずの自分が「自分」という絶対的な存在をアピールするためには、コミュニティの頂点に立つ以外にない。これは、進化心理学的にいうと、コミュニティのトップに立てば、子孫を残せる確率がグッと上がる。そうすると、快感物質が脳内で分泌されるので、幸せを感じられる、ということだ。いわゆる、マズローの5大欲求における、『自己実現欲』に当たる。僕たちがまず目指すべきなのは、何かしら、一番になれる分野を探しながら、それを目指すことだ。やり方は山ほどある。何よりもまずは、過去の自分にアクセスし、自分は過去にどんな場面で上に立つ事ができたかを考えてみるのが良いと思う。闇雲にやるのは、じんせい100年あって足りないと思う。


さて、これは幸せの在り方のほんの一部に過ぎない。僕たちが待ち構えているのは、もっと難しい問題かもしれない。つまり、この『一番になる』というのは、一時的な状態では意味がないのだ。常にそうである必要があり、持続性が伴わなければならない。そのために、僕たちは時代の変化に応じて、僕たちも変化できるようにしなければならない、というわけだ。まあこれは、別記事(「個人弱者が個人強者になる方法を考えてみた」)を参考にしてくだされ。


また、もうひとつある。長いがお付き合いください。

こうして、どこなのコミュニティのトップに立ったとする。そうして、自分は「満たされた存在」になるのだ。つまり、自分のあらゆる欲求はみたしおわったので、その欲求を満たすためのエネルギーが余ると。そのエネルギーはどうやって使ったら良いのか?という話である。僕はこの状態を「ギバー」(与える者)と呼んでいるが、僕たち、いや、人類はみな、「ギバー」になるのが必須である。これなくして、人間らしい生き方などできやしない。僕たちはまず、ギバーになる必要がある。これは、『必須科目』だ。教育の義務化が要求されるべきだ。

で、ギバーになるとどんないいことがあるか?というと、困っている人の役に立つことができる。しかも、本当の意味で。どういうことかというと、自分の余ってエネルギーをまだ欲求を満たせていない人たちに与えることができる。すると、不思議だ。幸福を感じることができる。誰かが喜んでいる姿を想像するだけで、僕らギバーは喜びを、幸せを感じることができる。おそらく、憶測だが、過去の自分を、困っている人たちに投影しているのではないか、それで自分ごとのようだな幸せを感じることができるのではないかと、僕は踏んでいる。その辺詳しい人は、ぜひコメントでもなんでもいいので、教えてくださいまし。


さて、話にまとまりがないが、言いたいことはこうだ。このギバーが義務化すべきだといったのは、『育児の問題』と密接に関わってくるということだ。悲しいデータであるが、日本のなんと、子供を産んだ決断をした人たちの人数、が 産まない決断をした人たちよりも3割多かった(細かい数字は、後日正しく修正します)という統計が出ている。つまり、日本人の多くが、育児で大変な思いをしているということだ。しかし、本来、育児というのは、可能性の塊である我が子を育て、未来の子孫繁栄に向けて幸福を感じる行為なのだ。それを面倒、ストレスと思うのは、なぜだろう?


僕はこれを、思うに、「ギバーになれていないからである」と言いたい。というか、そのはずだ。自分のことが、自分で満たせていないのに、まさか感情の塊である子供を育てられるわけがないのである。つまり、日本人の多くがギバーになれていない。子供のままなのである。年は食ってはいるが、実質的には、自分のことを自分で満たせられないくらいには未熟なのであり、大人になりきれていない、子供なのである。だから、子供が子供を育てて、辛いといってるようなもので、そりゃそうだ…と言わざるを得ない。


こうして、日本の今までモヤモヤしていた部分がクリアになってきた。なぜ少子化になるのか。その解決策は何か。幸福とは何か。


僕たちは、サッサと行動すべきだ。人間、10年もあれば、意外となんでもできるものだと思う。孫正義レオナルド・ダ・ヴィンチなどは、良い例だろう。彼らは特別ではなく、現実という不快を回避しようとしている、それも人一倍に、、同じ人間に過ぎない。ということを仮にでもいい。本気で信じられるのだとしたら、今これを見ている君も、きっと変われるに違いなく、幸せな人生を送れるだろう、と僕は予想するのでした。



以上。お風呂は暑い