考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

侘び寂びを解釈してみた。

侘びは、足るを知る。つまり、自分を満足させるのに、最低限必要なものを把握するということ。例えば、生活費は月10万で足りるし、食事も一日2500カロリー、セックスや友人との交流、酒、睡眠など、自分を満足させるのに最低限どれだけ必要なのかを把握することだ。

寂びは、最適化の結果に対して美しさを感じること。つまり、simpleさに魅了されること。その背後の変化の過程を慮って、美しさ、生物としてのたくましさを感じること、心惹かれること、子孫繁栄に適しているなと思うこと。


という風に考えると、侘び寂びとは、「徹底的合理主義」である。両者は手段と結果の関係であると言える。また、その先にあるのは、「完璧さを求めたい」という気持ちであると思う。例えば、音楽や美術、ダンスにしても、何かしら伝えたい思いがあり、その思いを体現するために完璧なコミュニケーションツールを作成する事こそが、原動力なのではないかと思った。


まとめると、

人間のうちにある表現したいメッセージを完璧な形で表現することが、目的。

その手段として、侘び寂びがある。


寂という一切の無駄がない状態が、目的。それを達成するための手段が、侘び。


ということになるんじゃないだろうか。


簡単に言って仕舞えば、好きな事を追求するのに、自分の必要最低限なものを把握して、必要以上なものを排除する。できた余力で好きな事に完璧さを求めるってのが、侘び寂びの言いたいことなんじゃないだろうか、とおもひます