考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

「引きこもり」がより良い世界を作るという話。

僕たちが認識すべきなのは、「無目的に何かを攻撃する事は差別である」という事実なのです。これはなぜそう思ってしまうのか?というと、現行教育の成果なのではないでしょうか。画一性教育。これはつまり、多様性を認めない(多数派=勝者)という構図が何故だか出来上がってしまっている。そこからあぶれたものは、必然的に敗者というレッテルを貼られ、言われなき差別を被る。何とも残酷ですが、これが現実です。


ここからは、僕が思うこれらの問題の対策です。つまり、どうしたら差別がなくなるのか?僕たちに何ができるのか?という方法の提案です。


まず、教育です。

まだ善悪の区別も付かず、何が世間一般的にいう「善」で「悪」なのかを識別できていない子供向けには、教育を変えるしかありません。多様性を許容する教育。それは、運動でもそうですし、音楽でもそう。勉強でも、美術でも、子供一人一人が自分が興味を持て、活躍できそうかな?と本能的に思える環境を整える事。また、その活動に、"大人が"善悪の評価を下すのではなく、どれも皆価値あるものであるという指導をしなければならない。テストで良い点を取った。それも良い事だ。金を稼げるようになった。それも良い事だ。自分の音楽を作れるようになった。それも良い事だ。大事なのは、教える側が善悪の評価基準以外の基準を持っているか?ということです。


この話は、心理学の用語を使って説明した方がわかりやすいと思います。


まず、意識には大雑把に言うと3段階あります。

1つ目は、「自我意識」です。思春期の子供が自分と世界が切り離された存在である事を自覚し、不安になる頃です。要は、「私」がいて「その他」がいるという認識です。


2つ目は、「共同体意識」です。自我を芽生えさせた「私」は、この複雑な世界で生き残る事に急激な不安を覚えます。そこで、群れを成してその不安を取り除こうとします。典型なのは、家族、学校、会社、国です。共同体に所属する者は、共同体における「ルール」に縛られる代わりに、群れに属しているという「安心感」を得られます。こうして、「私」は「私たち」になります。と同時に、「私たち」以外の「私たち」つまり、別の共同体は敵になります。これは「悪」と言われる存在で、バラバラな個体を結束させ共同体を維持するのに必要な要素となります。(なぜなら、「私」は本来弱い存在であり、敵を作り、集団でいじめることで「私」が優越した気分を味わえるためです。これは他人を批判する際に分泌される脳内麻薬によるものだと言われています。)こうして、共通の「悪」がでっち上げられると、「私たち」は「善」になります。「私たち」は正しい。「その他」は間違っている。だから、正しい「私たち」が不正を正さなくてはならない。こうして、差別が始ります。

共同体に所属する事は、安心感を得られる一方で、差別をする側に回ってしまうという面もあるのです。


3つ目は、「統合型意識」です。2つ目までは、「私」とそれらが集まる「私たち」がいて、共同体を成す。属している共同体は善であり、それ以外は悪で排除の対象となる。これが差別だと説明しました。


次の「統合型意識」とは何なのでしょう?

2つ目の共同体意識を「善悪二元論的意識」と命名したとします。その場合、統合型意識とは、「善悪統合論的意識」でしょう。つまり、全ての現象には絶対的な善も悪もなく、目的やその状況によって善も悪も変わりうる、という判断ができる意識レベルの事です。これは、言い換えれば、人生において目的を持ち、自分の置かれている状況を客観的に判断した上で、合理的な選択をしているか?していないか?で善悪が決まる考え方でもあります。


「私たち」が目指さなければならないのは、この「統合型」の意識レベルです。そうしなければ、いつまで経っても差別は無くならない。子供たちには、こうした統合型を養成するための教育を施すべきでしょう。



次に、個人の行動です。

「私」は何をすべきなのでしょうか?「私」には何ができるのでしょうか?


僕が思うには、個人レベルで善悪の判断基準を持つことです。人生における目的は何か?何に心を惹かれるか?音楽・絵画・小説・ファッション・学問…自分が好きだと言えるものを「人に説明できる」ようにすることだと思います。そのためには、好きなものが何故好きなのか?を言語化する必要があります。実際に自分から好きを実践して見る必要があります。やってみてわかるということもあるからです。


こうして、個人(「私」)が自己判断で世界を生きていくことができる強い個体に変貌できれば、世の中が変わります。個人は共同体に無理に所属することなく、必要に応じてその時々で所属することができる。差別をする必要もなく、個人レベルで人生を謳歌することができるようになります。


では、今から何をすべきなのでしょうか?それは、「引きこもる」事です。これは、自分だけの世界に引きこもりましょう、ということです。

モラトリアムを楽しみましょう。共同体に染まるのではありません。自分だけの世界を構築する時間を確保しましょう。



でも、ここで「自己差別」の問題が発生します。というのは、今の日本という国の共同体において、「レールから外れるなんてダメな人間だ」という共通認識があるからです。そして、実際にレールから外れると復帰がしづらいです。(ですが、これも徐々に抜け道が用意されています。なので、レールから外れたからもう終わりだ…なんて悲観する必要はありません。レールから外れないことよりも大事なのは、自分の価値判断を持つことです。そのために、やはり、まだ持っていない方は、モラトリアム期間を作り、自分だけの価値判断を醸成させる必要があります。今まで共同体に所属し、共同体の価値判断でしか生きてこれなかった個体が、次のステップに進むには、これしかありません。共同体から逸脱し、個人としての価値判断、弱い「私」を強い「私」に変化させることです。これがなによりも大切だと、僕は思います。)


ですが、人間なんて個体としてはみな無力なものです。それを実感するためにも、自分が差別していること、自分が舐めていること、自分が興味を持てる何かを実際にやってみましょう。すると、いかに自分が無力な人間であるかを思い知ることができます。そして、有能な人間と言えども、有能な分野とはある1つの分野に限られていたりするものです。世間一般的な成功とは、皆ができるものではないかもしれません。早い人は十代で、遅い人では60代以降で成功したりします。ここで大事なのは、自分のペースで、自分だけの価値判断を持ちながら、コツコツと自分の価値を生産することです。成功してもしなくてもいいんだと思います。


大事なのは、毎日を幸せに生きることなのですから。


とにかく、「私」の価値判断がない人は、「引きこもり」ましょう。自分だけの価値判断を身に付けるために。