考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

リベラルな若者の雑感

なんだか、本当に、心からワクワクすることに時間を当てた方が良いと思うんだ。というのも、こうして日々を過ごしていくと、特段、自分はこの世界に存在していなくても、これといって支障はなく、仮にいなくてはならない存在だとしても(それは例えば、子供を持った時のように)、僕はこのままずっと生きてていいのだろうかと自問するだろう。


居場所探し


だが、自分の活躍できる居場所を探せたとして、それがなんになるのだと言うのだろう。結局、世界はそう変わらない。だったら、その怒りとでもいうか、落胆というか、諦めというか、そういった感情を、音楽や美術などの芸術に昇華させることで、少しは気が晴れるのではないか。むしろ、大義実現のための仕事よりも、芸術のほうが余程大事である。人生というか、人類への落胆を芸術に昇華させ、それでも大義実現へのわずかな可能性を信じて仕事に邁進し、世界中の同志と少しでもより良い世界を築き上げようとせん、このリベラルな若者。


困ったものだなあ。


世界がより生きやすい世界になるために。

【世界の課題】

人は自分に余裕がないと優しくなれない生き物で、差別も同じ仕組みで発生してしまう。だから、差別のない世の中にするには、人が余裕を持たざるを得なくなる社会制度にすれば良い。具体的には、正解のない、多様性が認められる世の中。各人が各様に自分のベストな生き方を持っており、自由に出入り可能な組織が乱立している世の中。(よって、年齢や性による差別のない採用形式の組織が大半を占めることになる。だが、制限を設ける組織があっても良い。)


【好きな写真】

彩度がはっきりしている。色のある世界ではあるけど、暗い。どんよりしている。不安になるような、これから明るくはならないんだろうな、と思わせるような明るさ。「絶望の世界」っていうのが相応しいかも。世界に期待すればするほど、苦しくなる。変えることのできない世界を前に、自分の無力さを痛感せざるを得ない。怒り。それをうまく芸術に昇華させることができるものが、アーティストなのかもしれない。

「引きこもり」がより良い世界を作るという話。

僕たちが認識すべきなのは、「無目的に何かを攻撃する事は差別である」という事実なのです。これはなぜそう思ってしまうのか?というと、現行教育の成果なのではないでしょうか。画一性教育。これはつまり、多様性を認めない(多数派=勝者)という構図が何故だか出来上がってしまっている。そこからあぶれたものは、必然的に敗者というレッテルを貼られ、言われなき差別を被る。何とも残酷ですが、これが現実です。


ここからは、僕が思うこれらの問題の対策です。つまり、どうしたら差別がなくなるのか?僕たちに何ができるのか?という方法の提案です。


まず、教育です。

まだ善悪の区別も付かず、何が世間一般的にいう「善」で「悪」なのかを識別できていない子供向けには、教育を変えるしかありません。多様性を許容する教育。それは、運動でもそうですし、音楽でもそう。勉強でも、美術でも、子供一人一人が自分が興味を持て、活躍できそうかな?と本能的に思える環境を整える事。また、その活動に、"大人が"善悪の評価を下すのではなく、どれも皆価値あるものであるという指導をしなければならない。テストで良い点を取った。それも良い事だ。金を稼げるようになった。それも良い事だ。自分の音楽を作れるようになった。それも良い事だ。大事なのは、教える側が善悪の評価基準以外の基準を持っているか?ということです。


この話は、心理学の用語を使って説明した方がわかりやすいと思います。


まず、意識には大雑把に言うと3段階あります。

1つ目は、「自我意識」です。思春期の子供が自分と世界が切り離された存在である事を自覚し、不安になる頃です。要は、「私」がいて「その他」がいるという認識です。


2つ目は、「共同体意識」です。自我を芽生えさせた「私」は、この複雑な世界で生き残る事に急激な不安を覚えます。そこで、群れを成してその不安を取り除こうとします。典型なのは、家族、学校、会社、国です。共同体に所属する者は、共同体における「ルール」に縛られる代わりに、群れに属しているという「安心感」を得られます。こうして、「私」は「私たち」になります。と同時に、「私たち」以外の「私たち」つまり、別の共同体は敵になります。これは「悪」と言われる存在で、バラバラな個体を結束させ共同体を維持するのに必要な要素となります。(なぜなら、「私」は本来弱い存在であり、敵を作り、集団でいじめることで「私」が優越した気分を味わえるためです。これは他人を批判する際に分泌される脳内麻薬によるものだと言われています。)こうして、共通の「悪」がでっち上げられると、「私たち」は「善」になります。「私たち」は正しい。「その他」は間違っている。だから、正しい「私たち」が不正を正さなくてはならない。こうして、差別が始ります。

共同体に所属する事は、安心感を得られる一方で、差別をする側に回ってしまうという面もあるのです。


3つ目は、「統合型意識」です。2つ目までは、「私」とそれらが集まる「私たち」がいて、共同体を成す。属している共同体は善であり、それ以外は悪で排除の対象となる。これが差別だと説明しました。


次の「統合型意識」とは何なのでしょう?

2つ目の共同体意識を「善悪二元論的意識」と命名したとします。その場合、統合型意識とは、「善悪統合論的意識」でしょう。つまり、全ての現象には絶対的な善も悪もなく、目的やその状況によって善も悪も変わりうる、という判断ができる意識レベルの事です。これは、言い換えれば、人生において目的を持ち、自分の置かれている状況を客観的に判断した上で、合理的な選択をしているか?していないか?で善悪が決まる考え方でもあります。


「私たち」が目指さなければならないのは、この「統合型」の意識レベルです。そうしなければ、いつまで経っても差別は無くならない。子供たちには、こうした統合型を養成するための教育を施すべきでしょう。



次に、個人の行動です。

「私」は何をすべきなのでしょうか?「私」には何ができるのでしょうか?


僕が思うには、個人レベルで善悪の判断基準を持つことです。人生における目的は何か?何に心を惹かれるか?音楽・絵画・小説・ファッション・学問…自分が好きだと言えるものを「人に説明できる」ようにすることだと思います。そのためには、好きなものが何故好きなのか?を言語化する必要があります。実際に自分から好きを実践して見る必要があります。やってみてわかるということもあるからです。


こうして、個人(「私」)が自己判断で世界を生きていくことができる強い個体に変貌できれば、世の中が変わります。個人は共同体に無理に所属することなく、必要に応じてその時々で所属することができる。差別をする必要もなく、個人レベルで人生を謳歌することができるようになります。


では、今から何をすべきなのでしょうか?それは、「引きこもる」事です。これは、自分だけの世界に引きこもりましょう、ということです。

モラトリアムを楽しみましょう。共同体に染まるのではありません。自分だけの世界を構築する時間を確保しましょう。



でも、ここで「自己差別」の問題が発生します。というのは、今の日本という国の共同体において、「レールから外れるなんてダメな人間だ」という共通認識があるからです。そして、実際にレールから外れると復帰がしづらいです。(ですが、これも徐々に抜け道が用意されています。なので、レールから外れたからもう終わりだ…なんて悲観する必要はありません。レールから外れないことよりも大事なのは、自分の価値判断を持つことです。そのために、やはり、まだ持っていない方は、モラトリアム期間を作り、自分だけの価値判断を醸成させる必要があります。今まで共同体に所属し、共同体の価値判断でしか生きてこれなかった個体が、次のステップに進むには、これしかありません。共同体から逸脱し、個人としての価値判断、弱い「私」を強い「私」に変化させることです。これがなによりも大切だと、僕は思います。)


ですが、人間なんて個体としてはみな無力なものです。それを実感するためにも、自分が差別していること、自分が舐めていること、自分が興味を持てる何かを実際にやってみましょう。すると、いかに自分が無力な人間であるかを思い知ることができます。そして、有能な人間と言えども、有能な分野とはある1つの分野に限られていたりするものです。世間一般的な成功とは、皆ができるものではないかもしれません。早い人は十代で、遅い人では60代以降で成功したりします。ここで大事なのは、自分のペースで、自分だけの価値判断を持ちながら、コツコツと自分の価値を生産することです。成功してもしなくてもいいんだと思います。


大事なのは、毎日を幸せに生きることなのですから。


とにかく、「私」の価値判断がない人は、「引きこもり」ましょう。自分だけの価値判断を身に付けるために。

新卒採用という「差別」は、もう止めよう。

これはエッセイである。僕の脳内の断片である。ゆえに、枕詞や昨今の社会情勢は…などの言葉はなかったりする。好き勝手に書くだけである。読みたい方だけどうぞ、というスタンスである。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


芸術だけで食うのは無理だろ。

だったら他の特技で採用されて、就職する。または、フリーターとして芸術や特技を磨く。実力がないなら、実力をつけて勝ち取るしかない。


なぜ新卒採用を利用しないのか?


新卒採用は年齢差別の最たるもので、僕はリベラル(反差別主義)だからだ。僕よりも会社に入るべき人材がいるからだ。


それは年齢でフィルタリングされているが、同年代にかかわらず、年下でもおっさんでも、僕よりも適任者がいるのだ。そういう人たちが採用されるべきで、そうする事で人材の流動性が高まる。人材の流動性が高まれば、解雇されたとしても、また社会に復帰する事ができる。


典型的な日本的企業のおっさん達がリベラルになりきれない、むしろ差別主義者になってしまうことを避けるには、まずは「採用の入り口」における差別構造を破壊しなければならない。


という考えのもと、僕は生きているので、その差別に加担したり便乗するわけにはいかない。僕が実力を身につけ、信頼を勝ちとり、就くべき場所(会社や団体)に就くべきなのである。





というわけで、新卒採用は反対だ。

そんな制度に便乗するくらいなら、貧乏でもいい。フリーターでも良い。ただ、自分の実力を発揮できる場所を探す努力と、差別をしない努力だけを怠らなければ、人は、世界は輝ける。より良い世界になると信じている。

現実に絶望してもなお、そこに「希望」はある。

この世に希望があるとすれば、進化論的リバタリアニズムを実現することだ。すなわち、制度を効率性、扱い易さを最重要視(パナーナニズム)するのではなく、人間の最適能力に合わせた(自由市場的)制度体制を整えていけば、人間はやはり「バカ」だが、そのバカを自覚せずとも自然と真実の幸福な生き方に向かうよう仕向けることができる(余計なお世話という意味で、余計なお世話なリバタリアニズムと言われていた気がする。)


そういう未来への希望を実現するには、自分自身がリバタリアニズム的に生きる。リベラルにならなければならない。しかし、今から国を出て、己の身一つで自立する能力を身に付けるのは現実的とはいえないだろう。やはり、どこかの組織や権威に師弟関係を申し込み、能力を伸ばすのが合理的だ。だが、彼はどうだろう。彼もそうだな。なんだかんだ、有名な方と仕事をする中で10年という時を経て自己実現を果たした。彼のような生き方は素晴らしいと僕は思う。


彼とは人生観が似ている気がする。つまり、生きていく事の意味はないが、それでも死ぬという決断よりは楽だ。だから生きていくのだが、何をモチベーションに生き続けていけばいいのだろうか?と考えた時に、"虚構の中に"幸せを作ると、父と倒産や家族の崩壊といった辛い思いをするだけで、例えやるとしても、いやどうせ深入りするから僕はやりたくないな。自由放任的に、まるでお月様のように育てれば子供ともうまくやっていけるだろう。それと、パートナー。彼女にも縛られたくない。子供が自立するまではいいとして、その先も縛り合うようなパートナーなら要らない。むしろ、僕が「美しさ」を感じやすいようにしてくれる、見せてくれるようなパートナーなら万々歳だ。しかし、なによりも頼れる、真実だと言えるのは、僕自身だ。僕自身が「美しい」と感じる事、その事実こそが紛れもない真実であり、その真実を探求することこそが、僕の生きるモチベーションであり、人間らしい生き方なのであると思う。それ以外は虚構であり、マスターバージョンであり、それでもその虚構で生きていける世の中だから変になってしまうのだ。虚構の中で幸福の拠り所をすべて求めたものは、自殺を余儀なくされるかもしれない。虚構とは共同幻想のことであり、人はか弱い生き物であるから、その幻想の中が心地よいのだ。でも、幻想は"差別体制"を前提としている。国家に所属することであれ、新卒採用であれ、定年退職であれ、民族差別、年齢差別、性差別、身分差別はまかり通っている。だがそれがあたかも「正義」であるかのように、「当たり前」であるかのように歴然と日本の常識として佇んでいる。おかしいだろう。それは合理的な理由を説明できない「差別」なのだから。


こうした差別体制を取り除くのに、効果的な政策はなんだろう?僕たちにできることはなんだろう?人間の最適性に合わせた制度体制。ここに関しては、『不愉快を嫌う理由がある』を読み直そう。僕が単独で考えるよりは、本当に余裕のある進化論的リバタリアニズムの方々の意見を聴いて、理解して、批判して、持論を持ち、僕が本当に余裕になった際にスムーズに協力できるようにするべきだ。つまり、知のイノベーションを起こす手助けにはなるかもしれない。だから、僕が本当に余裕のある人間になる価値はある。なぜ生きるのか?どうせ生きるなら「人類の進歩に貢献したい」と思うからだ。でも、人類の進歩なんてものはなく、僕たちがやろうとしてるのは、「人類が進歩『せざるを得ない』仕組み作り」をしてそれにコミットしようとするのだ。いわゆる、"お節介"なわけだが、それでも世界でまかり通っている「不平等性」「不自由性」「生きづらさ」を解消するには、これしかない。人間の「バカ」は治りようがない。そういう歴史や進化心理学が示した事実を受け入れて、その上で何か最善の策がないかと模索するのである。バカを受け入れる。その上で、バカでも人らしくいかざるを得なく制度とは何か?どうしたら達成できるか?を考えるのである


これが人生における一つの大きな課題だ。二つある。もう一つは、音楽でいかに自己実現を果たすかだ。それには僕自身が感じる『美しさ」を追求し続ける必要がある。そのために合理的な選択肢は選ぶべきだと思う。でも、その選択をすることが差別を受け入れることならどうだろうか?辞めるべきか?否。なぜなら、日本という国にいる時点で、民族差別を肯定しているといっているようなものだからだ。それでも、海外に行くことが合理的ではないと判断する。なぜなら、日本はなんだかんだ言っても経済大国第3位の国で、その中で自己実現を果たせば、なんだかんだで億万長者になれる夢はあるからだ。それから海外に出ていくのも、遅くはないだろう。能力的に弱い存在が、伽藍や虚構を利用するのは、なんらおかしくはない。(?)問題なのは、虚構の中で住み続けることであり、現実を生き抜こうとしない姿勢だ。その態度が差別をいつまでも存在させ続けてしまう。愛や弱さが永久の差別を生む。それをするくらいなら、僕たちは自由に生きる、虚構から抜け出して現実を生きる。その中で美しさや希望に突き動かされながら、人間が人間らしく生きられるような、生きやすくなるような世の中にしていけれ場いいじゃないかと思うわけだ。問題なのは、虚構の中で「幸福の拠り所をすべて求めてしまうことだ」。つまり、家族愛、会社愛だけだと脆いのだ。そうでなく、自身だけで完結する美しさに対する感性、人生をかけて成し遂げたいこと(希望)を持つべきなのである。そう、そういうことだ。

人間(ヒト)はなぜ生き続けるのか

虚構の中で生きるのは心地がよい。


だが、一度夢から覚めてしまうと、ただ救いようない、希望の無い現実が待っているだけで、そこでは生きてる心地はしないはずだ。


それでも『死』という選択をしないのは、死ぬという行為の方が"シンドイ"からだ。


(夢の中に幸福のすべてを求めると、死んでしまった方が合理的だと判断するのではないかとは思う。)


なら、生きよう。


シンドイのは嫌だ。


生きてこの世界の「美しさ」に触れていれば、少しは"本当の幸せ"を感じられるのではないか


と思う。



崇高な理想の朽ちた先に

18.8.25


バカは治らない。少なくとも、ソクラテスの時代からバカは治っていない。それでも、とかじゃない。バカは自分がバカであることを自覚していない。少なくとも、僕は自分がバカな存在で、自己欺瞞やら自己正当化やらしてる事に「気づきうる」が、バカはそれができない。なぜなら、自分を客観視するすべを持たないから。でも、仮に持ったところで何がどう変わるというんだろうか?心がリベラルになる?世界がリベラルに向かう?僕自身がリベラルになって思うのだが、心だけでなく、行動までもリベラルにするのは、実に難しい。何者にもとらわれず、幸福の源泉である家族と生涯を送ること。この理屈はわかる。でも、そう。お金の問題になると、乗り越えられない壁みたいなものを感じる。でも、やってもないし、調べてもない。それどころか、自分オリジナルの音楽すらないのに、「そんなのできっこないよ」とハナから諦めてしまうのは、あまりにももったいない。ところで、僕の「生きる」目的は、「人類の進歩に貢献すること」であったが、これは変えなくてはならないと思う。なぜなら、それは現実味のない空気を掴むような目標だから。それでも、可能性はゼロなのだろうか?ゼロだという証拠は?ない。おそらく、ほんの少しあると思っている。というよりは、あると思わないと生きている意味がない。だから、ほんの少しでも夢を見ていたいんだ。虚構の中にいても夢を見、虚構から抜け出しても、夢を見ずには生きていけない。世界はこんなに残酷であると同時に、美しいんだ。よくできている。人間は意識を持ってしまった動物に過ぎない。地球において特別でもなんでもなく、犬や猫と同じ、カマキリや蝶と同じで、自分たちの生存を賭けて、幸福を追い求めて日々をただ過ごしている。そこに崇高な目的や志なんてものはなく、ただひたすらに人間の遺伝子にプレインストールされた「自由」「平等」「友愛」をこの世界で体現しようとするだけだ。世界はグローバル化し、リベラルに近付きつつあるが、アメリカの現状を見てわかるように、特別にリベラルというわけではない。もちろん、日本よりは自己表現の場が広く、その人口も多いに違いないが、それでも既得権益者というのは存在する。では、「ユートピア」は単なる夢物語だったのだろうか?僕はそうは思えない。というよりは、そう思ってしまっては生きている意味がないのだ。だから、そう思わずにはいられない、というのがより正確なところだ。なぜそう思うのかといえば、テクノロジーの目覚ましい発展があるからだ。昨日不可能だと思われたことが今日では人類にとって常識で普遍的なものとなることがある。空なんてまさか飛べるはずがないと思っていた人類が、今では飛行機やヘリ、気球など自然を模倣して空を飛ぶことができている。不可能を可能にするのが科学とも言えるかもしれない。科学には、そういう可能性を感じさせる「甘ったるさ」がある。僕たちはその科学についつい誘惑されてしまう。だから、希望を捨てられずに今日をも生きていけるのだ。明日にはひょっとしたら、明日にはもしかしたら…と願いながら。仮に人類がやろうと思えば個人で自給自足できるような生活スタイルを確立できたとする。その時、リベラルな世界が実現するだろうか?もはや、政府の役割は最小限(ないしは、全くない)に抑えられ、個人がその幸福の赴くままに生きていくことのできる世界が実現するだろう。では、テクノロジーの発達を待つしかないのか?これには、イエスとしかいえない。強いて僕たちにできることといえば、子供の興味の赴くままに、テクノロジーに触れさせることではないだろうか。でも、人間の才能のおよそ50パーセントは、遺伝的に決まっているという。数的処理や科学的な分析を得意としない遺伝子にできることといえば、後世が間違った道を歩まないように、軌道修正をさせつつ、今を楽しむことではないだろうか。そして、こんなに長々と書いたところで、僕の崇高な理念を再掲するという根本的な問題の解決策は何一つ浮かばなかった。今を楽しむ。後世の軌道修正をする。子供を産む。およそ、モチベーションとなるものはない。あるのは、音楽への愛だけだ。でも、それさえも自己満足的な目的となってしまう気がして、嫌気がさす。そもそも、僕の人生に衝撃を与えるほどの音楽はない。いや、かっこいいと思う人たちや音楽はあるが、だからといってそれが僕の人生を変えたかというと、それはない。むしろ、吉野源三郎の本や漱石の作品に心打たれた。でも、自身で小説やエッセイを書くことなど、したいとも思わない。できるのは、こうした朝起きて珈琲を口に含みながらリラックスしている時間くらいだ。まあ工夫次第なのだろうか。朝は言語、昼は以降は音楽活動、夕方は運動、夜は人と会ったり本を読んだりベッドタイムを楽しんだり。でも、こうしてなんとか日々を繋いでいくことにも疲れが見える。それが僕を自殺に追い込む、ということは、ないとは言い切れない。なんせ、「科学」があるから。でも、それは僕にとっては得体の知れない「虚構」だ。実際はあるのだが、理解はできない。だから、信じられないのだ。でも効用はある。だから、信じざるを得ないといったところ。


長々と本当に書いたが、まとまりがない。思考垂れ流しはうまくいっている。

先の事(不確定要素の多い出来事)はなるべくリソースが集まった段階、先送りをして済ませようとするのが合理的だと思う。

だとしたら、今僕にできる最善の策は、テクノロジーの蜜を吸いつつも、「今を楽しむこと」だ。気楽にやれ、自分。