考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

安易に「フリーランスになれ」という人がわかっていない残酷な現実。

僕が言いたいことはこうだ。


外に出ろ外にだろいうが、好きなことで食える見込みがねえから出れねえんだわ。お前らみたいに言語とか数学処理能力が優れた奴にはわからないかもしれないが、音楽センスや美的な方が優れてる奴には、今すぐ飛び込めと言われても勝てる見込みはないんだよ。


そこの所を考慮せずにケツを叩くのは、余計なお世話だし、納得がいかねえ。そんなの不公正じゃねえ。


だから、僕が弱者でも対等な立場になり、その先駆者になる。こういう人がいないと、外に出たくても出れない人、出たとしてもなぜか幸福を感じられない人が現れ、幸福の格差(自己実現で飯が食えるかどうか)が生じる。これは不公平だ。僕は認めん。


バザールで安定的に稼げるのは、すでに価値として認められていて、その価値を表出する高いスキルや才能を持った人に限られる。そうでない、まだ価値として認められていない才能を伸ばし、価値として世間に認めさせるには、工夫が必要で、大きな価値のあるものと同じやり方では食っていけない。


好きなことで食ってけるやつとそうでないやつがいる。なのに、安易に外に出ろとだけいうのは、余計なお世話だ。そこに不平等性がある。


好きな事で食ってける奴だけが幸福になれて、そうでない奴は幸福を享受しづらい。なのに、外に出ろ?うるさい。黙ってろって話だ。


だからこそ、僕のスタンスは「リバタリアニズム」だ。人の人生に余計な口は挟むな。


言いたいことがあるなら、適切な批判、より合理的なやり方、応援だけにしろ。


それ以外は無視に値する。なぜなら、読むだけ時間の無駄だし、怒りというのは結構なエネルギーを使う。そんなことにエネルギーを使ってる場合ではないのだ。


人生とは短い。やりたい事をやり尽くさねばならないのだ。



最善のパートナー選びについて考えてみた。

■結論までのプロセス

その他自分のせいで迷惑をかけてしまった人たちへ、今の課題がひと段落したら、謝る?でも選んだのは自分だ。なんというか、区切りを付けたい。恋愛の延長で付きたくない、だから期待しないでくれ、という事を言いたいんだが。嘘は良くない。だから、言い方としては、いや、態度だ。向こうも一端の大人、自立した人間である事を前提にという態度で接する。つまり、セフレがいやなら成長すればいいし、セフレがいやであなたが変わってというなら、それは子供じみてるし、セフレでもいいなら利害が一致するし。とにかく、向こう次第なんだよ。僕は聖欲も満たせるし、ついでにご飯も食べれて、次の日の活力にもなるから行くけど、そうでないなら意味がなくて。専業主婦の人は代わりが聞いてしまう。それでは、売春婦と同じじゃないかってこと。機会と同じ。そうでなくて、代わりがおらず、常にいてもストレスがなく、自立していて、適応能力があって、学ぶものがある、考えを聞ける、きちんと自分の論理をもっている、といえ人、かつ自分と志が同じ人であるなら、自分がへばった時、本当のパートナーになってくれるはずで。そういう人と共存すれば、まあ、弱ったときも克服できるだろうし、いっしょにいるだけで常に生産てき、何か学ぶものがあるというのは、かなーりでかい。利己的で自立した人間にとっては。だから、そういう人間を選ぶ。というか、そういう人間で周りを固める。高学歴はそういう人が多くていいよね。リバタリアン思想ならなお良い。最高でやんすよ。

で、パートナーの選び方の話に戻る。リバタリアンはごまんといるだろう。というのは、アメリカでリバタリアンの古典的小説である「肩をすくめるアトラス」(これは2泊目にKやTの強調がきてるまさにタイトルとしてもふさわしい題名。さすが藤森佳代子さん)が聖書の次に読まれている本であるからだ。つまり、アメリカ人の結構な割合でリバタリアンがいるとすると(しかも、リバであるトランプが大統領に当選したということは、(まあ2割くらいはリバタリアンで、3割は思考なき楽観主義者かな)まあアメリカ人口の2割、つまり2000万くらいはリバタリアンがいるのである。その中から自分にとって最善のパートナーを見つけるにはどうしたら良いか?という話。


■結論

結論を述べれば、①直感に頼る、②自分の強み弱みを把握し、弱みをカバーしてくれるリバを選ぶ(※自分の守備範囲と向こうの守備範囲が重なっていなければよいのだが、仕事で活かせないような分野は避けるべし。)③パートナーの強み弱みを把握し、弱みを自分の強みでカバーできるかで選ぶ(※②と③はセット)



例えば、音楽であれば、僕は歌があまり得意ではない。(といっても、小さなカラオケ大会で最優秀賞をもらえるくらいには歌えるんですが。)それは肉体的な限界でもあるし、時間的なコストがかかりすぎる問題もある。だが、僕の表現の幅を広げるという意味では、かなり重要なファクターで、必要な要素だ。だから、歌がうまい人、しかも飛び抜けて上手い人と共存、パートナーとなることで、その点をカバーする。僕の利害だ。一方で、パートナーがもし歌は歌えるけど、その他楽譜の用意や録音環境の整え方、そのた楽器の演奏、映像制作、イラスト制作、広告と言ったことに関しては全くと言っていいほど無頓着であれば、それは僕がカバーする。その方が、パートナーのためになるからだ。


こうして、二方良しの状態になる。二方良しになれば、自ずと表現の質も上がるはずなので、それを待つ顧客も満足しやすくなる。


これで三方よしだ。


パートナー選びのやり方。

直感は頼り甲斐はありますが、僕は②と③でやります。汎用性があるので。


前提として、自分の強み弱みを把握する必要がある。そのためには、自分でなんでもやってみる。自立した人間になってみることが必要。そうすると結局、みんなリバに向かうんですよね。必然。人としての最善戦略は、リバなんですよね。と僕は信じています。

言葉の情報量で欲しい情報へアクセスできるかどうかが決まる。

要は、どれだけ「文字」として知識を持ってるかなのかもしれない。文字がないとネット検索すらできない。ゆえに、ほしい情報にアクセスできない。だから読書って大事なのかも。

僕は失われた時間を取り戻しつつある


→言葉としての知識って

たとえば、progateで描かれた綺麗なグラフィックデザインを自分でもやってみたいと思った時に、それがどんなアプリで描かれているのかがわからない。また、そのデザインの名称すらわからないとなると、本来はそのデザインがやりたいだけなのに、その名称を特定し、検索エンジンにかけるまででかなりの時間を使ってしまう。ここの無駄な時間をいかに最適化して、目標までの行動量を減らせるかというのが、重要だと思っている。


illustratorで描かれたベクターアートというものを知るのに、僕はかなりの時間を費やした。まず、illustratorというアプリの存在すら知らず、ベクターアートも知らなかった。となると、progateに直接問い合わせてデザインを知るか、ネットでprogateで使われてるデザインの方法を調べるかとなるが、僕はまずprogateで使われているアートを表現したいという発想すらできないほど、思考が凝り固まっていた(僕はとことん期限に弱い)ので、とにかくイラストを検索しまくって、力づくで乗り越えてしまった。だが、言葉として、文字としてデザインの名前を知っていれば、こんなのは5秒でほしい情報にアクセスできる。言葉として知っている、というのは、それだけほしい情報にアクセスできる合理的な方法なのだと思う。となると、本や雑誌の使い方も重要になる。古典的な、不変の知識は本や古典で、生の最新の情報は、ネットや雑誌で情報収集に励まなければならない。まあ、どちらかというと、古典で不変の原則を学びつつ、必要に応じて、生物を仕入れていく、というスタイルが、僕はいいと思う。

ヒトは「物語」に突き動かされているって話。〜何をしたらいいのかわからない人へ〜

キリストの予定説=人一人に固有の物語があって、僕たちはそれを体現しようとする。物語とは、生存戦略のことで、どんな世界なら自分が最も生き残りやすいか?というものだ。ここでは、みなリバタリアン(自分のことは自分で何でもやる)だという前提で話したい。そのような自給自足生活を可能にさせるインフラの整備が実現したら、次はどんな世界を望むだろうか?僕が思うに、地球の持続可能性ないしは、別惑星への移住計画だ。といっても、人が本当に地球に住めなくなる日なんてのは何億年も先かもしれないし、差し迫って危機が訪れないと、そんなことは考えないかもしれない。


豊かな社会(人々の欲求を満たしうる社会)には、新たな文化は生まれない。


だが、復興はあるかもしれない。ルネサンス的に過去の文化に遡り、現代のアンチテーゼとして、批判のために、新しい文化が誕生するかもしれない。完璧なんてものはない。だからこそ、不満が募って、人々は芸術を生み出そうとする。そう、芸術とは、溜まったストレス、現状への不満を一時的に解消するとともに、誰かに理解してほしい、賛同してほしい、共に行動する同志がほしいという願いがあるはずである。


だとしたら、それ以外の芸術には、どこか物足りなさがある。中学生の発表会のような、ただただ技術を披露し、賞賛のための芸術(すなわち、ポピュリズム、芸術至上主義)は、行き詰まるものがあるだろう。


本当に大切なのは、「物語」だ。

どんな世界を望み、それがどんな世界なのかを表現する。そのための「芸術」である、と常々思うのだ。

幸福のヒントは現実を直視することにあるよ、という短い話。

人生はドラマである。


何を克服するかで、「え?そんな事で悩んでたの?」と振り返ると馬鹿馬鹿しく、でもまあいい思い出だったなと言えるものがある。


例えば、受験勉強をしたことがある人なら、誰でも受験はドラマだ。その時はめちゃくちゃ必死こいて勉強する。自分の目標の中学やら高校やら大学やらに入るために、自分を磨きに磨いてゴールを目指す。


それが1つのドラマになる。


でも、そんな事は歳を取るに足らない事だったなと言えてしまうようになる。そう、人生にはもっと乗り越えなければならない難題が待ち構えているからだ。


■人生をドラマ化するには?


その難題とは、「死」である。


人は、死を克服するために、生きる。すると、人生全体がドラマ化する。フローに入る。その避けがたく不快な現実を克服するために、どうしたらいいのかを全身全霊で考えるようになる。


こうして人は、「人」になる。誰かの物語の中で生きる「脇役」ではなく、自分の物語で生きられるようになる。


人はこうして完成する。すなわち、「大きな物語」から「小さな物語」へと移転することで、人は真人間へと変態する。


幸福のヒントは、ここにある。


と僕は確信している。

死を克服せよ。

侘び寂びを解釈してみた。

侘びは、足るを知る。つまり、自分を満足させるのに、最低限必要なものを把握するということ。例えば、生活費は月10万で足りるし、食事も一日2500カロリー、セックスや友人との交流、酒、睡眠など、自分を満足させるのに最低限どれだけ必要なのかを把握することだ。

寂びは、最適化の結果に対して美しさを感じること。つまり、simpleさに魅了されること。その背後の変化の過程を慮って、美しさ、生物としてのたくましさを感じること、心惹かれること、子孫繁栄に適しているなと思うこと。


という風に考えると、侘び寂びとは、「徹底的合理主義」である。両者は手段と結果の関係であると言える。また、その先にあるのは、「完璧さを求めたい」という気持ちであると思う。例えば、音楽や美術、ダンスにしても、何かしら伝えたい思いがあり、その思いを体現するために完璧なコミュニケーションツールを作成する事こそが、原動力なのではないかと思った。


まとめると、

人間のうちにある表現したいメッセージを完璧な形で表現することが、目的。

その手段として、侘び寂びがある。


寂という一切の無駄がない状態が、目的。それを達成するための手段が、侘び。


ということになるんじゃないだろうか。


簡単に言って仕舞えば、好きな事を追求するのに、自分の必要最低限なものを把握して、必要以上なものを排除する。できた余力で好きな事に完璧さを求めるってのが、侘び寂びの言いたいことなんじゃないだろうか、とおもひます

平成のロールモデルを考えてみた。(製作中)

はじめに要約




自己実現(幸福の源泉)までのプロセスを最適化したい(無駄をなくしたい)

→15-18は自我が芽生える、だが高等教育は必要不可欠

→その期間、政府が生活費を支給する(早熟の子には?)

→18からは自力でお金を稼がせ、自分のことは自分でできるようにし、自分の好きなことに投資させる

→35までに自分が最前線で活躍できる分野を見つける


親からの援助を受けられる人受けられない人、や35過ぎても活躍できない人に対しては?

→与えるべきは、「機会の平等性」(生活費の支給)「選択の自由」(自我萌出時に家族という伽藍からの解放)だけ。あとは、本人がやるかやらないかな"努力次第"。だからこそ、本当に好きな分野でトップランナーを目指す必要がある。だからこそ、最高のチャンスでもあるが残酷な時代でもある。



→15歳で家族からドロップアウトした少年少女を支援する団体を作りたい(それで自己実現できるように)

→15歳でバイトを採用できる機関を作って、対価としてお金を払う。その金で本を買ったり、教室に通ったり、好きなこと(自己投資)ができるような環境づくり

→年関係なく、自分の生活費を稼ぐだけの期間、働ける(ネットで)環境があればいい

→何が足りない?単純作業だけど遠隔操作で事足りて、けど圧倒的に人員不足な分野

→これやってくれたら対価として生活費を負担するよってシステムがあればいい。


15歳で自我が芽生えると仮定して、やりたい事を探す時期に入る

→勉強はしなくちゃいけない(なぜなら、高等教育までは最低限の知識として持っておいたほうがいいから)が、金が足りない

→15-18 の高校期間は、勉強しつつ、自分が何をやりたいのかを探る期間にする。その間、自立資金として、お金が政府から支給されるようにする。

→18からはアルバイトしつつ、自分で勉強したいことに自己投資する(自立しろとバザールヘ放り込まれる)

→そこから結婚限界年齢の35歳までの17年間で、自分だけの居場所を見つける

→パートナー(互いに自立してる、長所欠点を補い合える、恋人関係ではない)と利害を一致させ、子供を育てる

→子育てをする

→自立させたら本業に戻り、社会で何を残すのかを考える(どんな社会にしたいか、政治に参加するということ)


まあ、もう平成終わるので、何ロールモデルになるかわからんのですが。