言葉の情報量で欲しい情報へアクセスできるかどうかが決まる。
要は、どれだけ「文字」として知識を持ってるかなのかもしれない。文字がないとネット検索すらできない。ゆえに、ほしい情報にアクセスできない。だから読書って大事なのかも。
僕は失われた時間を取り戻しつつある
→言葉としての知識って
たとえば、progateで描かれた綺麗なグラフィックデザインを自分でもやってみたいと思った時に、それがどんなアプリで描かれているのかがわからない。また、そのデザインの名称すらわからないとなると、本来はそのデザインがやりたいだけなのに、その名称を特定し、検索エンジンにかけるまででかなりの時間を使ってしまう。ここの無駄な時間をいかに最適化して、目標までの行動量を減らせるかというのが、重要だと思っている。
illustratorで描かれたベクターアートというものを知るのに、僕はかなりの時間を費やした。まず、illustratorというアプリの存在すら知らず、ベクターアートも知らなかった。となると、progateに直接問い合わせてデザインを知るか、ネットでprogateで使われてるデザインの方法を調べるかとなるが、僕はまずprogateで使われているアートを表現したいという発想すらできないほど、思考が凝り固まっていた(僕はとことん期限に弱い)ので、とにかくイラストを検索しまくって、力づくで乗り越えてしまった。だが、言葉として、文字としてデザインの名前を知っていれば、こんなのは5秒でほしい情報にアクセスできる。言葉として知っている、というのは、それだけほしい情報にアクセスできる合理的な方法なのだと思う。となると、本や雑誌の使い方も重要になる。古典的な、不変の知識は本や古典で、生の最新の情報は、ネットや雑誌で情報収集に励まなければならない。まあ、どちらかというと、古典で不変の原則を学びつつ、必要に応じて、生物を仕入れていく、というスタイルが、僕はいいと思う。