考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

現実に絶望してもなお、そこに「希望」はある。

この世に希望があるとすれば、進化論的リバタリアニズムを実現することだ。すなわち、制度を効率性、扱い易さを最重要視(パナーナニズム)するのではなく、人間の最適能力に合わせた(自由市場的)制度体制を整えていけば、人間はやはり「バカ」だが、そのバカを自覚せずとも自然と真実の幸福な生き方に向かうよう仕向けることができる(余計なお世話という意味で、余計なお世話なリバタリアニズムと言われていた気がする。)


そういう未来への希望を実現するには、自分自身がリバタリアニズム的に生きる。リベラルにならなければならない。しかし、今から国を出て、己の身一つで自立する能力を身に付けるのは現実的とはいえないだろう。やはり、どこかの組織や権威に師弟関係を申し込み、能力を伸ばすのが合理的だ。だが、彼はどうだろう。彼もそうだな。なんだかんだ、有名な方と仕事をする中で10年という時を経て自己実現を果たした。彼のような生き方は素晴らしいと僕は思う。


彼とは人生観が似ている気がする。つまり、生きていく事の意味はないが、それでも死ぬという決断よりは楽だ。だから生きていくのだが、何をモチベーションに生き続けていけばいいのだろうか?と考えた時に、"虚構の中に"幸せを作ると、父と倒産や家族の崩壊といった辛い思いをするだけで、例えやるとしても、いやどうせ深入りするから僕はやりたくないな。自由放任的に、まるでお月様のように育てれば子供ともうまくやっていけるだろう。それと、パートナー。彼女にも縛られたくない。子供が自立するまではいいとして、その先も縛り合うようなパートナーなら要らない。むしろ、僕が「美しさ」を感じやすいようにしてくれる、見せてくれるようなパートナーなら万々歳だ。しかし、なによりも頼れる、真実だと言えるのは、僕自身だ。僕自身が「美しい」と感じる事、その事実こそが紛れもない真実であり、その真実を探求することこそが、僕の生きるモチベーションであり、人間らしい生き方なのであると思う。それ以外は虚構であり、マスターバージョンであり、それでもその虚構で生きていける世の中だから変になってしまうのだ。虚構の中で幸福の拠り所をすべて求めたものは、自殺を余儀なくされるかもしれない。虚構とは共同幻想のことであり、人はか弱い生き物であるから、その幻想の中が心地よいのだ。でも、幻想は"差別体制"を前提としている。国家に所属することであれ、新卒採用であれ、定年退職であれ、民族差別、年齢差別、性差別、身分差別はまかり通っている。だがそれがあたかも「正義」であるかのように、「当たり前」であるかのように歴然と日本の常識として佇んでいる。おかしいだろう。それは合理的な理由を説明できない「差別」なのだから。


こうした差別体制を取り除くのに、効果的な政策はなんだろう?僕たちにできることはなんだろう?人間の最適性に合わせた制度体制。ここに関しては、『不愉快を嫌う理由がある』を読み直そう。僕が単独で考えるよりは、本当に余裕のある進化論的リバタリアニズムの方々の意見を聴いて、理解して、批判して、持論を持ち、僕が本当に余裕になった際にスムーズに協力できるようにするべきだ。つまり、知のイノベーションを起こす手助けにはなるかもしれない。だから、僕が本当に余裕のある人間になる価値はある。なぜ生きるのか?どうせ生きるなら「人類の進歩に貢献したい」と思うからだ。でも、人類の進歩なんてものはなく、僕たちがやろうとしてるのは、「人類が進歩『せざるを得ない』仕組み作り」をしてそれにコミットしようとするのだ。いわゆる、"お節介"なわけだが、それでも世界でまかり通っている「不平等性」「不自由性」「生きづらさ」を解消するには、これしかない。人間の「バカ」は治りようがない。そういう歴史や進化心理学が示した事実を受け入れて、その上で何か最善の策がないかと模索するのである。バカを受け入れる。その上で、バカでも人らしくいかざるを得なく制度とは何か?どうしたら達成できるか?を考えるのである


これが人生における一つの大きな課題だ。二つある。もう一つは、音楽でいかに自己実現を果たすかだ。それには僕自身が感じる『美しさ」を追求し続ける必要がある。そのために合理的な選択肢は選ぶべきだと思う。でも、その選択をすることが差別を受け入れることならどうだろうか?辞めるべきか?否。なぜなら、日本という国にいる時点で、民族差別を肯定しているといっているようなものだからだ。それでも、海外に行くことが合理的ではないと判断する。なぜなら、日本はなんだかんだ言っても経済大国第3位の国で、その中で自己実現を果たせば、なんだかんだで億万長者になれる夢はあるからだ。それから海外に出ていくのも、遅くはないだろう。能力的に弱い存在が、伽藍や虚構を利用するのは、なんらおかしくはない。(?)問題なのは、虚構の中で住み続けることであり、現実を生き抜こうとしない姿勢だ。その態度が差別をいつまでも存在させ続けてしまう。愛や弱さが永久の差別を生む。それをするくらいなら、僕たちは自由に生きる、虚構から抜け出して現実を生きる。その中で美しさや希望に突き動かされながら、人間が人間らしく生きられるような、生きやすくなるような世の中にしていけれ場いいじゃないかと思うわけだ。問題なのは、虚構の中で「幸福の拠り所をすべて求めてしまうことだ」。つまり、家族愛、会社愛だけだと脆いのだ。そうでなく、自身だけで完結する美しさに対する感性、人生をかけて成し遂げたいこと(希望)を持つべきなのである。そう、そういうことだ。