考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

現行教育制度の早急な刷新の必要性を主張する旨の記事。

伽藍から真人間に変態しないといかんのに、伽藍の中に閉じこもって、真人間になれず、それを正当化し、伽藍の中に閉じこもるべきだという上の幹部たちがいかんなあ。結局みんな伽藍の中から飛び出して真人間としてバザールで生きていきたい。でもそれは悪であり、伽藍の中で生きる事こそが正義であるという情報操作をする幹部たちはおかしいのだ。真人間になれ。本当の自分の居場所を探せ。

あくまでも、伽藍の役割は「真人間になるための準備期間」(生まれたばかりの人間はあまりにも弱い存在であるため、伽藍の中で真人間になるための教育を受けなければならない)。でも、真人間になれず、伽藍にいる事こそが正義であるという、伽藍のルールを利用して、伽藍の中で未完成の人間である自分を正当化する人間もいる。その操作に操られているのが、今の未熟な僕たちであり、ずっと会社勤めをしている人たち。


いつまでも自分だけ真人間になれなかった人間が、それでも伽藍の中で閉じこもる事を正当化するために施した情報操作であるようにすら感じられる(つまり、政府が国民をバザールに出さないようにし、自己の存在を正当化した)

→でも違うと。

本来の伽藍の役割は、人間を真人間に変態させること。その変態の方法を教えて、バザールにて自力で真人間に変態させること。

でも、真人間になりきれなかった人たちが、自己の存在を正当化するために、あたかもそれが正解でそれ以外は落ちこぼれであるかのような情報操作、教育をした。そうする事で、自分の真人間になりきれなかった自分を正当化し、心の平穏を保っている。要は、その情報操作から抜け出せない学徒たちも悪いが、真人間に嫉妬する人間も悪い。

→でも、本題はそうじゃない

なぜなら、ネットがない時代の正解は、やはり伽藍の中で生き、そこで居場所を探すのが合理的だったからだ。なぜなら、日本を出てしまえば、働く場所はなく、住む場所もない、食べるものも自力で確保できないことが多く、飢え死にしてしまう恐れがあるからだ。伽藍は、真人間になるための制度ではあったが、それは日本という伽藍の中で居場所を探すための教育であった。でも今は違う。ネットが普及し、自分で自分のことをほぼ全て管理できる時代となり、今までの伽藍(旧伽藍)では、崩壊しつつある伽藍の中での居場所を探すことしかできない。今はバザールで自分の居場所を探し出す伽藍(新伽藍)制度が必要である。それを「個人教育」と呼ぶことにする。個人教育を国民、いや人類の義務とするべく、ぼくが構築する「変態工学」の精度を高めつつも、その有用性を証明する。そのために、僕自身がバザールに飛び出て、その変態工学の有用性を実証する。それから、教育を刷新する。そう。旧伽藍(旧教育課程)では、伽藍の崩壊から、日本人を守りきれない。だから、新伽藍(新教育課程)が必要なのだ。

今必要なのは、日本という伽藍で生き残る教育制度ではない。世界というバザールで生き残る教育制度なのだ。

人間の正体と管理法(随時更新予定)

人ってバカなんだよな。生まれた時から自力で立ち上がらないし、生存能力の一欠片もない。でも、芋虫は自分が産まれた卵の殻を食べたり、生まれた時から葉っぱに擬態して鳥な脅威から身を守ることができる。人って芋虫以下なんだよね。芋虫未満。だから、そういうバカな性質(自力ではとてもじゃないけど生き残る事ができない性質)を前提に生活した方が楽になる。なぜって、人は誰かの真似をしないと自力で二足歩行ができないように、言語が話せないように、そうできているから。だとしたら、一度、バカは「真似の仕方」を習得する必要がある。それが「学習」である。学習の仕方も、真似しないことにはわからないであるから、機械的にやらせるのがいいだろう。それで伽藍(学校)に入れさせる。それから、自力で「学習」する(なんでも真似して生き残ることができるようになる)ことができれば、「人間」へと変態する。

でも、今の学校は、「機械」のままで教育が終わっている。そうではない。「人間」に変態させなくてはならない。ではどうしたら変態するのか?それには、まず「人間」(美しい)の定義からだろう。「人間」とは、「生存のために変化し続けられるヒト」の事だ。そのためには、自分が最も不快に感じるものを把握し、それを克服する方法を考えること。それから自分の強み弱みを把握し、実際に克服する。それから、死を克服する手段を考えること。それで人間は他の動物たちと一線を画すことができる。


では、いかに①無駄なく②効率良く学習できるかであるが、それは目的がないことには①も②も達成することはできない。だから、まずは目標だ。それはすなわち、どう死を克服するか?という話。自分の強み弱みを把握すること。どの居場所で縄張りをはるかということ。

変化が怖いなら、「変態工学」を学べ。

変化が起きた時に日本はパニックになる

その時に、僕の生地が少しでも役に立てばいい。


まず、起こりうる変化を恐れて今のうちからあれこれと対策するのは、合理的とは言えない。なぜなら、それは起こるかわからないからだ。徒労に終わるかもしれないということ。

例えば、これからグローバル化が進むから、みんな英語を勉強しておけよ、というが、本当に自分が英語を使うかどうかなんてわからない。いつか役に立つときは来るかもしれないが、来ないかもしれない。だとしたら、確実にやっておくべきことに焦点を当てるべきだ。それが何かと言うと、「変化が起こること」だ。つまり、変化に備えればいい。変化に応じて、自分が最短で「変化」できるようにしておけばいい。つまり、変化が起きたら、その時、そのまさに必要だという危機が差し迫った時に、必要なスキルを最短で身につけられる「アルゴリズム」(方法論)を習得していればいいのだ。それが、今からやっておくべきこと。変化を恐れる若者や、中年のおっちゃん達がやるべきことは、何よりもまず、「変化に順応する汎用スキル」だ。僕はこれを「変態工学」とでも名付けたいと思う。マークは、そうだなあ。変化の象徴である「蝶」だな。芋虫→蛹→蝶へと反対して行く姿は、魅了する不思議な力がある。僕たちも変態すべきなのだ。環境の変化に応じて。



変態のための準備は


①自分が今まで生きてきた中で最も感じた不快な体験(自分のコンプレックスや弱さが理想)を用意する


②なぜ不快に感じたのかを、自分に一言で説明する


③どうしたらその不快が無くなるか、むしろ快になるかを想像する


④その快を得るために、最も効果がありそうな目標を立てる


⑤いつまでに快を得る必要があるか、時間設定する


⑤その目標を最短で達成するために、最適なプロセスを描く


⑥10年、1年、1ヶ月、1日のように、最終目標を達成するための小さな目標も立てる


⑦小さな目標を最短で達成するために、最適なプロセスを描く


・すべて目標と期限、目標までのプロセスは、スケジュール帳に書き込むこと

・考える時は、すべて文字に起こすこと


今日は大雑把に。以上!


マネタイズは信用を得てから考えろ!

あと3年以内に日本で起こる大変化と、日本人が目指すべき理想、そのためにやるべき事を10の流れでまとめてみた。

めちゃくちゃ大雑把ですが、橘玲氏の『(日本人)』は、日本人全員が知るべき大事な事であると直感したので、自分の思考整理兼、この記事を機に何かしらの危機感を抱き行動する人が増えればいいと思った次第です。(ただ、読み終わり直後なのと、全体像を掴むために書き連ねたので細かい説明は省いてあり分かりづらいのですが、それについては、橘氏の本をご購読いただくか、今後の僕の記事の更新に期待するしてください。何卒、ご了承ください。今後、情報がより整理されれば、加筆修正します。)


では、以下本編。


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まず、大前提として、人間の本性は3つある。(自由=私的所有権・選択の自由、平等=機会の平等、友愛=コミュニティ・同志)(チンパンジーの実験の結果とナポレオンが掲げた思想が一致)


①日本人は万葉の昔から、めちゃくちゃ個人主義的な性格がある

②それは現代にも通じる日本人「性」

③日本人を統治する為に、豊臣秀吉は五人組で連帯責任をうまく利用した(コミュニティの利用)

④同様に、坂本龍馬らも、明治維新で「国家」というコミュニティを形成した

⑤だが、うまく機能しなかったのは、それが単なる海外のパクリであり、日本人には「責任」という概念がなかったから、自由が実現しなかった(法治(法による統治)が機能していないので、個人に責任は発生せず、連帯責任では封建制の悪しき名残として批判される。だから、無限責任というバッシング行為になる。悪い結果に関わる人全員をバッシングする事。福島原発事件の東電社員が好例)

⑥日本人はそのコミュニティの中で、自由が得れないともがき苦しみ、自分探しをする

⑦その原因は、日本にローカルルール(差別を正当化する勧善懲悪なツール)の維持が、グローバル化により、難しくなって来たから(なぜなら、グローバル企業が日本にも進出して来ていて、日本人だけに日本のローカルルールを適用するわけには行かないから)


⑧世界は他者と共存するというグローバルルールが拡散しており、日本にも押し寄せて、伽藍(ローカルルールが適用された閉鎖的なコミュニティ)が崩れて来ている

⑨という流れが不可避であるならば、グローバルルールにキャッチアップするしかない。日本において日本人の「他者」(共存すべき存在、ローカルルールではなく、グローバルルールを適用した日本人)となれば、日本の差別的なローカルルールが消え、グローバルルールが自然発生する

個人主義的な日本人が、伽藍から抜け出し(国家や会社に依存せずに生きていけるようにする事)、グローバルルールを適用し、他者と共存しながら、自分のことは自分でやるという責任を持ち、その自由を享受したなら、自己表現を実現(自己実現)が容易となり、日本はユートピア(目指すべき理想)になる。



18.7.13現在

「なぜ真面目になってしまうのか」への僕なりの回答。

なぜそんな真面目なのか?

→真面目なのかもしれないが、単なる好奇心だ。もしくは、適当な情報を鵜呑みにして、それを信じて(?)行動した結果の責任は、情報を提供した者にではなく、紛れもない自分に帰するのが解せないから。要は、自分が納得した理由で、納得した選択をしたい。そのためには、納得できる説明で世界を理解する必要があるだけの事。真面目とかではなく、後悔したくないだけだ。自己防衛としての理解。目的と理由が、必要なのかも。その情報を正しいと判断し、行動の規範としたのは、紛れも無い自分であり、結果の恩恵・責任を受けるのも、紛れも無い自分なのだ。そりゃそうだ。だけど、この「情報の判断」の精度を疎かにすると、大した結果にならない。むしろマイナスな結果ばかりを受けることになってしまい、めちゃくちゃに疲れる。そうなりたく無いだけのことだ。だから、「真面目」なんじゃなくて、後悔したく無いだけ。機会が平等に与えられ、選択の自由が本当にあるのだとしたら、その恩恵を最大限に活かしたい、それで自分の人生を最大までに幸福に導きたい。そんな原始的な動機で僕は成り立っている。というか、単純ですよホントに。だから、シンプルに考えた方が良い。シンプルシンプル。それは楽しいか楽しく無いか。長く楽しめるか楽しめないか。この2つの問いだけ。おっさんになっても楽しめることやりたいよね。できるなら快的な環境を整えたいよね。2つのテーマで、なるべく最短で実現できる様に、心掛けている。毎日学びがあり、ドーパミンが分泌されてる感覚があり、自分が何者であるか、どんな思想があるのか、というのが明確になって来て面白い。思考がクリアになる。単純になって来る。楽しいもんだ人生。

否定することの不合理性について、それでも否定してしまう人間の不合理さ。

誰でも、大切なものを否定されると殺意を覚える。でも、殺さないのは、殺すメリットよりも、殺さずにいたほうがメリットが大きいとわかっているから。何かを否定する事は、そういっためちゃくちゃ大きなリスクを背負うってことだ。んでもって、殺意とかいわゆる「負の感情」も、僕は大事にすべきだと思う。というのは、それが自然だから。

でも、たまに、衝動に負けて、人を殺してしまう人がいる。彼らは、それが合理的なんだ。なぜなら、失うものがない。つまり、殺さないメリットよりも、殺すメリットの方が上回ったという事だ。僕たちは、どこか殺人者を「異常者」扱いする癖があるが、あれは違う。僕たちの中にもその衝動はある。だが、合理的に考えて、そのメリットがないというだけなんだ。このことはものすごく、日本の何か悪いものが放置されているという恐怖を彷彿とさせる。たぶん、『教育制度』だ。どこでも出てくる教育制度。思うに、この部分をアップデートしない事には、日本の未来はない。いや、本当に。この危機感、必要性、理解、どうなればいいのか、どうすればいいのか?というのを知らしめるのが僕の役目であると信じている。

誰得に、理想のオッさんについて語ってやろう。

問題をその場だけ解決しようとする人と、根本的に解決しようとする人がいる。前者は、アーティスト。生粋の。問題は一時的には解決する。ストレスの発散方法として、芸術作品を輩出すればよい。だが、それは根本的な問題解決にはならない。だから、一生もがき続ける。だから、それが辛くなって、薬や酒に逃げる。

一方で、後者は、根本的な問題を解決しようとするから、政治家になる。つまり、自分に与えられた時間(期限)の中で、やることはやった人間になれるから、後悔が少なくて済むし、酒や薬に溺れることもない。ひとつ、ストレスがあるとすれば、根本的に解決した問題でも、じわりじわりと理想の世界が実現していくのであり、その完成形は、自分の目で確かめることができないし、その恩恵を授かることができないということだ。自分が基盤を作ったなのに。笑という意味で、ストレスだ。もどかしい。

芸術にひっそり、その生を受け入れ、"いつでも死ねるように生きる"ことを目指したい。どんなおっさんになりたい?と言われたら、「いつでも死ぬ準備ができた、生に執着しないおっさん」と答えたい。