考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

崇高な理想の朽ちた先に

18.8.25


バカは治らない。少なくとも、ソクラテスの時代からバカは治っていない。それでも、とかじゃない。バカは自分がバカであることを自覚していない。少なくとも、僕は自分がバカな存在で、自己欺瞞やら自己正当化やらしてる事に「気づきうる」が、バカはそれができない。なぜなら、自分を客観視するすべを持たないから。でも、仮に持ったところで何がどう変わるというんだろうか?心がリベラルになる?世界がリベラルに向かう?僕自身がリベラルになって思うのだが、心だけでなく、行動までもリベラルにするのは、実に難しい。何者にもとらわれず、幸福の源泉である家族と生涯を送ること。この理屈はわかる。でも、そう。お金の問題になると、乗り越えられない壁みたいなものを感じる。でも、やってもないし、調べてもない。それどころか、自分オリジナルの音楽すらないのに、「そんなのできっこないよ」とハナから諦めてしまうのは、あまりにももったいない。ところで、僕の「生きる」目的は、「人類の進歩に貢献すること」であったが、これは変えなくてはならないと思う。なぜなら、それは現実味のない空気を掴むような目標だから。それでも、可能性はゼロなのだろうか?ゼロだという証拠は?ない。おそらく、ほんの少しあると思っている。というよりは、あると思わないと生きている意味がない。だから、ほんの少しでも夢を見ていたいんだ。虚構の中にいても夢を見、虚構から抜け出しても、夢を見ずには生きていけない。世界はこんなに残酷であると同時に、美しいんだ。よくできている。人間は意識を持ってしまった動物に過ぎない。地球において特別でもなんでもなく、犬や猫と同じ、カマキリや蝶と同じで、自分たちの生存を賭けて、幸福を追い求めて日々をただ過ごしている。そこに崇高な目的や志なんてものはなく、ただひたすらに人間の遺伝子にプレインストールされた「自由」「平等」「友愛」をこの世界で体現しようとするだけだ。世界はグローバル化し、リベラルに近付きつつあるが、アメリカの現状を見てわかるように、特別にリベラルというわけではない。もちろん、日本よりは自己表現の場が広く、その人口も多いに違いないが、それでも既得権益者というのは存在する。では、「ユートピア」は単なる夢物語だったのだろうか?僕はそうは思えない。というよりは、そう思ってしまっては生きている意味がないのだ。だから、そう思わずにはいられない、というのがより正確なところだ。なぜそう思うのかといえば、テクノロジーの目覚ましい発展があるからだ。昨日不可能だと思われたことが今日では人類にとって常識で普遍的なものとなることがある。空なんてまさか飛べるはずがないと思っていた人類が、今では飛行機やヘリ、気球など自然を模倣して空を飛ぶことができている。不可能を可能にするのが科学とも言えるかもしれない。科学には、そういう可能性を感じさせる「甘ったるさ」がある。僕たちはその科学についつい誘惑されてしまう。だから、希望を捨てられずに今日をも生きていけるのだ。明日にはひょっとしたら、明日にはもしかしたら…と願いながら。仮に人類がやろうと思えば個人で自給自足できるような生活スタイルを確立できたとする。その時、リベラルな世界が実現するだろうか?もはや、政府の役割は最小限(ないしは、全くない)に抑えられ、個人がその幸福の赴くままに生きていくことのできる世界が実現するだろう。では、テクノロジーの発達を待つしかないのか?これには、イエスとしかいえない。強いて僕たちにできることといえば、子供の興味の赴くままに、テクノロジーに触れさせることではないだろうか。でも、人間の才能のおよそ50パーセントは、遺伝的に決まっているという。数的処理や科学的な分析を得意としない遺伝子にできることといえば、後世が間違った道を歩まないように、軌道修正をさせつつ、今を楽しむことではないだろうか。そして、こんなに長々と書いたところで、僕の崇高な理念を再掲するという根本的な問題の解決策は何一つ浮かばなかった。今を楽しむ。後世の軌道修正をする。子供を産む。およそ、モチベーションとなるものはない。あるのは、音楽への愛だけだ。でも、それさえも自己満足的な目的となってしまう気がして、嫌気がさす。そもそも、僕の人生に衝撃を与えるほどの音楽はない。いや、かっこいいと思う人たちや音楽はあるが、だからといってそれが僕の人生を変えたかというと、それはない。むしろ、吉野源三郎の本や漱石の作品に心打たれた。でも、自身で小説やエッセイを書くことなど、したいとも思わない。できるのは、こうした朝起きて珈琲を口に含みながらリラックスしている時間くらいだ。まあ工夫次第なのだろうか。朝は言語、昼は以降は音楽活動、夕方は運動、夜は人と会ったり本を読んだりベッドタイムを楽しんだり。でも、こうしてなんとか日々を繋いでいくことにも疲れが見える。それが僕を自殺に追い込む、ということは、ないとは言い切れない。なんせ、「科学」があるから。でも、それは僕にとっては得体の知れない「虚構」だ。実際はあるのだが、理解はできない。だから、信じられないのだ。でも効用はある。だから、信じざるを得ないといったところ。


長々と本当に書いたが、まとまりがない。思考垂れ流しはうまくいっている。

先の事(不確定要素の多い出来事)はなるべくリソースが集まった段階、先送りをして済ませようとするのが合理的だと思う。

だとしたら、今僕にできる最善の策は、テクノロジーの蜜を吸いつつも、「今を楽しむこと」だ。気楽にやれ、自分。