「努力」という名の「才能」
今日は、僕にとって意義深かった失敗談を話そうと思う。自分語りとなってしまい、大変恐縮だが、自分に自信が持てないという方や人生の意味に悩んでいる方向けに、少しでも勇気付けができればと思い、筆を執った次第だ。
話は、僕の高校時代に遡る。
以下、本編。
現役時代、志望校にどこにも受からず、親に頭を下げて浪人することになった。ここで頑張らなかったら人生詰むと、妙なプラウドが作動し、一日10時間以上勉強机に張り付くように勉強した。しかし、驚く事に結果は現役時代と変わらなかった。センター試験では現役時代から僅か15点しか上がらず(しかも現役時代の点数は大したことがないのにも関わらず)、第一志望の入試問題はチンプンカンプンで終わった。なんとか第二志望の大学には滑り込むような形で入れたものの、第一志望の大学に受かることはなかった。
小中高、順風満帆に人生を送っていた僕は悟った。
努力すれば何でも叶えられるわけではない。
高校から大学へという架け橋で、大きな大きな壁にぶち当たったのである。
そして第二志望の大学に入り、僕は気付いた。
世の中には、何となく勉強してできてしまう人がいる。
僕はこの現実に愕然とした。僕があれだけ費やした時間や労力は、彼らの前では無駄が多すぎるからだ。例えば、僕があらゆる好きな事を我慢して必死こいて暗記した世界史の知識を、彼らはサラッと習得してしまう。しかもアウトプットの質は彼らの方が断然に高い。
僕は認めたくなかった。これまで数多の欲を犠牲にして勝ち取ってきたものが、人生そのものが、まるで否定されるような錯覚に陥った。それほど僕にとって、人生に占める受験勉強のウェイトは大きかったのだ。
僕には勉強の才能がない。
より詳しく言えば、論理的な思考力、言語表現能力がないと思った。今でもそう思っているし、これは遺伝的な観点から見ても、過去の環境から見ても、仕方がないものなのかもしれない。
だが、僕は努力する才能がある(と思い込んでいる)。浪人時代、僕には恩人とも言える先生がいた。彼は、できの悪い僕に対して毎週「この子は本当に志望校に受かる気があるんだろうか?」と思っていたそうだ。(実際受からなかったのだが、本当にどこにも受からないと思っていたらしい。後日談。)
そんな彼が、センター試験でしょーもない点数を叩き出して泣きっ面になった僕を見て驚いたそうだ。
『まさか、最後まで授業を受けに来るとは…』
どんだけ出来が悪かったんだよ。と思わず突っ込んでしまいたくなるだろうが、それでも僕は必死で食らいついたのだ。どれだけ出来が悪くても、続けていればいつかできるようになる。僕には諦めない才能があった。
『君には努力する才能がある。』
あの日、彼から受けた言葉が今でも忘れられない。この言葉に救われ、僕の行動の原動力になっている。
僕には夢がある。まさか、叶えられると思ってはいない。どんだけ大きな夢なんだ。聞けば「そりゃ大層なこった。」と思わずにはいられないだろう。夢物語に過ぎない。だけど、夢の一部は実現できるかもしれない。ほんの少しでいい。ほんの少し影響を与えられればいい。
僕は諦めない。
僕には努力する才能がある。
諦めなければ、夢は実現する。