考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

「子供」を産み、育てるという行為の意味を考えよう。

子供は、自立するまでは親という精神的経済的安全基地があるのはいいが、しかし、自立するまでには、自分でそれらを確保しなければならない。その手助けをするのも、親の役目である。つまり、示唆に富む絵本や本など、芸術作品に触れさせ、そこから過去の人たちの経験(歴史)に学ぶ事ができ、自分の行動を修正し、自分なりのうまくいく法則を作り上げさせなければならない。宗教でいう「教義」を独自に作らせる事だ。しかもその教義は、人生でうまくいかない現実にぶち当たるたびに修正されるようなものでなくてはならない。固定化された規範は、やがて滅びる。なぜなら、そこには現実とのギャップが生じて、新しい教義の新興宗教が生まれるからだ。常に現実に照らし合わせてアップデートする必要がある。


子供を産むという行為は、身体的コンプレックスを解消する唯一の(?)方法だ。だから、パートナーを選ぶとしたら条件は2つ。①自身の身体的コンプレックスの真逆の相手をパートナーにすること、②変態力があり、自立している、この二軸だ。そして二人の利害が一致し、肉体的なコンプレックスを解消した子供こそ、二人にとっての希望となる。二人はその子供に生を与えたことに対して、責任を持たなければならない。法律は、子供を守るためのものだ。こどもがじりつするまで、しっかりと面倒を見なければならない。だが、『自立」の意味を取り違えている人がいる。有名企業に就職して、安定した収入を確保することだ。だが、時代は変わった。いつ企業が崩壊するかなど、わからない時代となったということだ。この構図では、子供の依存先を、家族から企業に移しただけで(精神的な安全基地がない、という意味で、もっと深刻な状態になるはず)、真に自立しているとは言えない。子供が自身で経済的にも精神的にも安全基地を作り、変化する力を持って不快な現実を生き抜くように、親はしなければならないということだ。


時間がないので、今日は以上!