現行教育制度の早急な刷新の必要性を主張する旨の記事。
伽藍から真人間に変態しないといかんのに、伽藍の中に閉じこもって、真人間になれず、それを正当化し、伽藍の中に閉じこもるべきだという上の幹部たちがいかんなあ。結局みんな伽藍の中から飛び出して真人間としてバザールで生きていきたい。でもそれは悪であり、伽藍の中で生きる事こそが正義であるという情報操作をする幹部たちはおかしいのだ。真人間になれ。本当の自分の居場所を探せ。
あくまでも、伽藍の役割は「真人間になるための準備期間」(生まれたばかりの人間はあまりにも弱い存在であるため、伽藍の中で真人間になるための教育を受けなければならない)。でも、真人間になれず、伽藍にいる事こそが正義であるという、伽藍のルールを利用して、伽藍の中で未完成の人間である自分を正当化する人間もいる。その操作に操られているのが、今の未熟な僕たちであり、ずっと会社勤めをしている人たち。
いつまでも自分だけ真人間になれなかった人間が、それでも伽藍の中で閉じこもる事を正当化するために施した情報操作であるようにすら感じられる(つまり、政府が国民をバザールに出さないようにし、自己の存在を正当化した)
→でも違うと。
本来の伽藍の役割は、人間を真人間に変態させること。その変態の方法を教えて、バザールにて自力で真人間に変態させること。
でも、真人間になりきれなかった人たちが、自己の存在を正当化するために、あたかもそれが正解でそれ以外は落ちこぼれであるかのような情報操作、教育をした。そうする事で、自分の真人間になりきれなかった自分を正当化し、心の平穏を保っている。要は、その情報操作から抜け出せない学徒たちも悪いが、真人間に嫉妬する人間も悪い。
→でも、本題はそうじゃない
なぜなら、ネットがない時代の正解は、やはり伽藍の中で生き、そこで居場所を探すのが合理的だったからだ。なぜなら、日本を出てしまえば、働く場所はなく、住む場所もない、食べるものも自力で確保できないことが多く、飢え死にしてしまう恐れがあるからだ。伽藍は、真人間になるための制度ではあったが、それは日本という伽藍の中で居場所を探すための教育であった。でも今は違う。ネットが普及し、自分で自分のことをほぼ全て管理できる時代となり、今までの伽藍(旧伽藍)では、崩壊しつつある伽藍の中での居場所を探すことしかできない。今はバザールで自分の居場所を探し出す伽藍(新伽藍)制度が必要である。それを「個人教育」と呼ぶことにする。個人教育を国民、いや人類の義務とするべく、ぼくが構築する「変態工学」の精度を高めつつも、その有用性を証明する。そのために、僕自身がバザールに飛び出て、その変態工学の有用性を実証する。それから、教育を刷新する。そう。旧伽藍(旧教育課程)では、伽藍の崩壊から、日本人を守りきれない。だから、新伽藍(新教育課程)が必要なのだ。
今必要なのは、日本という伽藍で生き残る教育制度ではない。世界というバザールで生き残る教育制度なのだ。