考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

「人殺し」の可能性は、全人類に備わっている事を無視してはいけない、という話。〜批判の処置法〜

昨今は、18歳の少年が「誰でもよかったら殺したかった」という無差別殺人をおこしたり、某有名ブロガーの方が、読者の反感を買い、尊い命を奪われてしまった悲しい事件が相次いでいる。ニュースに取り上げられないまでも、こうした事件は絶え間なく、世界中で巻き起こっているだろう。ニュースとは、注意勧告のようなもので、情報操作されている事を忘れてはいけない。


以下、本題である。


※僕の経験不足から、文章は"非常に"読みづらい。なので、かなり興味のある人でなければ読み進められないようにできている。(これはこだわりというよりは、文章スキルがないゆえに、ない事を利用したフィルタリングのようなもので、形式(見た目、読みやすさ)よりも本質(何が言いたいのか)の方を重視した結果だと思って、温かく見守っていただきたい、という注意文を書いた上で、どうぞ!)


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「〜をしてはいけない」という意思決定は大切だ。でもそれは、往々にして理想のままで終わる。例えば、ニュースで人殺しの報道がされて「人を殺してはいけない」と心では決めるが、果たしていざ犯人と同じ心理状態に追い込まれたら、自分は他の選択をする事ができただろうか?確実にYESと言える人はいないだろう。でも、してはいけない、という事はわかる。人はストレスを溜め込み過ぎると、ストレス回避の為に、発生源を潰そうとする。それは他人だったり、自分だったり。今の日本がおかしいのは、ストレスを受けてもなお、そのストレスから逃げる場所がない、もしくは逃げられることを知らされていない状況にある、ということである。結果として、そのストレスがその人の中で爆発して、他殺自殺になりうる。人には常に「逃げ場」が必要だ。ストレスを回避できる場所。ストレスのない場所。それは、余裕のあるところなのだ。余裕のある人に人は集まる。人類の父たれ。


■批判に対する受け止め方

例えば、「きもい」という評価にたいして、どう受け止めるだろうか?僕はとても肯定的だ。なぜなら、「きもい」という感情自体は、感受性の豊かさを表しており、「何も感じない」という、いわば「人間としての通常の感覚が麻痺している人」(こういう人は、大抵、ストレス過多が原因だ)よりも、何倍もマシなのである。つまり、「きもい」という感情を持つ事それ自体は、正常な人間としての証であり、肯定するべき事なのである。

重要なのは、きもいの奥にあるものである。言い換えれば、きもい(だから、止めろ)なのか、きもい(といっても、やるのは人の自由だよね)というのでは、コミュニケーションの方向性が全く違うのである。言うまでもなく、前者は「拒絶」であり、後者は「容認」である。後者の場合、大抵、その人たちの迷惑にならない範囲であれば、何も問題はない。きもいきもい言われるかもしれないが、別にそれで対象を否定してるわけではない。問題は、前者のほうだ。これは、ややもすると、きもい対象を消そうとしたり、否定したりするかもしれない。それは、見ていたりその対象を感知するだけで不快に思うからなのだが、そう思うのは対象の責任ではない。そう思う本人たちの問題だ。ここは、ハッキリとさせておかなければならない。例えば、目の前でブンブン飛ぶハエがいるとする。(場所は、外だとする。家なら他者の領域に侵入したハエが悪い。)耳障りだし目障りなので、どっかにいって欲しい気持ちはわかる。この気持ち自体は、当然の事で、大切にすべきだ。問題はここからで、このハエに対して、どうアクションを起こすかだ。このハエを潰そうとするのか、それとも、なぜハエがここで飛んでいるのかを考えてその原因を潰そうとするのか、はたまた、自分がその場を離れて別の場所に移動するかだ。後ろ二つは問題ない。とても前向きで、ハエと僕たちが対立する事がない。争いを避けられる。でも、一番目の選択肢は、他者を理解不能な存在として認識して、その可能性を奪ってしまい、ネガティブだと言える。僕がここで言いたいのは、自由で公共の場なんだから、迷惑をかけない限り(例えば、その人の名誉やコミュニティを毀損したり、今正当に獲得してるものを何かしらの方法で奪うこと)、何をしたって自由だって事だ。それにもかかわらず、その行為をやめさせようとしたり、その存在を消そうとするのは、自由な選択肢の剥奪ということになる。これはつまり、自由意志の話にも繋がる。人の意思(自由な選択肢)を無視することは、自分も無視されることなのだ。何かを否定することは、それだけ自分を苦しめることでもある。自分の行動の幅を狭めることなのだ。であるから、人様に迷惑をかけていないのに、自分が単純に不快だからといって、否定したり行動を阻害しようとするのは、今後の自分の可能性を減らすようなものなのだ。他者とのコミュニケーションは常にウィンウィンであろう。というよりは、トータルウィンでなければ、この世は生きづらい。そう思わないですか?


今回は以上です。