考えるコアラの頭の中

思考の整理整頓のために書きます。なので、思考ダダ漏れで読みづらいです。いつか推敲します。※18/6/26以前の記事は、別人格です。今から思うとおかしな事を言っているなと思ったりします。成長過程として敢えて残しておきます。何卒、ご理解ください。

『バグズ・ライフ』的結末は現在の世の中であり、ディズニー的世界観を実現しても、僕たちの生き苦しさは変わらないということを言いたい。

バグズ・ライフ感想

・話の内容: バッタとアリの対立

・バッタ側の論理 : アリはバッタよりも弱い生き物だ。だから、バッタはアリから餌をもらうことができる。

・アリ側の論理 : アリはバッタよりも弱いのかもしれない。だから、アリはバッタの命令に従わなければならない。餌も与えなければならない。

・バッタの論理の問題は、アリに二つのことで依存しているという事だ。一つは、餌。アリがその個体数の多さを利用して掻き集めた餌があるからこそ、バッタは飢えに困ることなく、生き延びることができる。ゆえに、バッタはアリに食物を依存している。本作品では、バッタはアリがいなくても食事には困らない設定だったので、あまり依存度は高くないだろう。もっと大事な二つ目は、自分たちの正しさの証明のために、アリを利用しているという事だ。どういうことかというと、バッタはアリより「強い」というバッタ側の論理がある。なぜなら、一対一ならバッタはアリよりも強いし、飛べるし脚力はあるし、身体は大きいからだ。その論理が正しいことを証明にするために、アリを服従させる。自分たちよりも弱い立場に置くことで、その論理の正しさを証明しようとしたのだ。だが、この論理には、根本的な誤りがある。まず、飛べることや脚力があること、身体が大きいことが「強い」「上に立てる」「それと比較して弱いものを何でも支配できる」という事にはならないという事だ。なぜなら、その「強さ」というのは、環境に依存するからだ。どういうことかというと、例えば、小さな穴に入りたいとする。そこに入れなければ、後ろから追いかけてくる鳥に食われてしまう。この場合、身体の小さなアリなら穴に容易に入れるだろう。だが、身体の大きな鳥はどうだろうか?ややもすると、入れずに、鳥の餌食になるかもしれない。そうしたら、人生ゲームオーバーだ。無が待っている。生き残るのは「アリ」で、生き残れないのは「バッタ」だ。バッタはアリよりも強いのではない。「ある環境においては」バッタはアリよりも強いのである。では、バッタは何を見逃していたのだろう?バッタはその論理をどう組み直せば良かったのだろうか?まず、アリとバッタに優劣はないということだ。なぜなら、その優劣は、環境に依存するからだ。そして、開かれた空間、つまり、グローバルな世界においては、「上には上がいる」という残酷な現実が待っている。僕たちがいくらその道を極めようとしても、赤ちゃんの頃からその道を極めるために、天才的な才能と努力、技能を磨いてきた人には、残念ながら勝てないのと同じだ。バッタは、その「上には上がいる」ことを考えなかった。つまり、「鳥」がいた。いや、考えはしていたが、その現実を受け入れられなかった。だから、そこに変えることのできない、決定的な事実を変えるために、虚構を自らに作り上げようとした。それが、「バッタ>アリ」という虚構であり、論理だ。バッタは、競争社会という自然界のルールを認められないがゆえに、そのストレスをアリにぶつけていたのかもしれない。が、実際は、優劣などは存在しない。あるのは、環境によって左右される優劣だけだ。バッタは、恐れていたはずだ。鳥にいつか食われるかもしれない。俺はなんて弱い存在なんだ。でも、それを受け入れられない。だから、「あり」という、一見弱そうな、(だが実際は強い。集団になれば、バッタなんかよりもずっと強いというのは、気付いていた)アリを利用した。バカで自分の意思を持たないアリを。アリ側からしたら、一見強そうなバッタに逆らったら、殺されてしまうかもしれないという恐怖があった。だから、バッタの意志に逆らえなかった。実際は、アリの方が強いのに。で、バッタの論理(つまり、バッタ>アリ)を、アリは受け入れた。

ここまで、僕が長々と語って言いたかったのは、「意志がないというのは、恐い」という事だ。自分が何をしたらいいのかわからない。だから、『偉そうな人』の言うことを聞いておけば、間違いないだろう。という論理と同じだ。違う。それでは、ヒトラーを生み出してしまう。皆がいうから正しいのではない。偉そうな奴がいうから、正しいんじゃない。あるべきなのは、何よりもまず、徹底的な自分主義だ。自分主義となり、自立でき、他人に迷惑をかけず、自分の力のみで生活できる人間になる事こそ、何よりもまずヒトが人間になるのに、やらなければならない事だ。ポピュリズム的発想の怖さは、ここにある。自分の生存戦略、いわゆる「意志」がないゆえに、偉そうな、既に力を持った人の意見を取り入れ(鵜呑みして)、それが規範となるようにする。だが、そこには、決定的に欠けるものがある。「思考」だ。僕たちが目指すべきなのは、徹底的に自身と向き合い、自身の強み弱みを理解し、自身の幸福を実現することのできる人間だ。バグズライフの結末は、結局、アリとバッタが対立して終わった。だが、自然界いや、人間の世界でも言えることだが、あらゆる生物は「共存」して生き残ることができている。対立する事は、不合理なのだ。なぜなら、得られる利益が少ないからだ。詳しくは、ゲーム理論で検索してみると、面白いと思う。囚人のジレンマ、という奴が代表的だ。要は、裏切り合うよりも、助け合った方が、長期的に見てどちらのメリットもあるよ、という合理的な判断のことだ。僕たちは共存しなければならない。無駄な対立をしてる場合じゃないんだ。競争ばかりしてるそんな世の中、息苦しくないか?僕たちは対立してる一方で、依存してもいるんだ。例えば、「バッタ>アリ」という論理を生み出すにしても、バッタはアリの存在無しには、強さを証明できない。バッタはアリよりも強いと主張するが、誰よりも何者かに依存に、それ無しでは自身の強さを保てないバッタこそが、一番弱い存在なのである、と僕は思う。なぜなら、アリ無しでは、バッタは弱くなるからだ。依存することの怖さの問題でもある。という事で、対立はするべきではない。なぜなら、依存できなくなってしまい、結局は自爆するから。そうではなく、対立するのではなく、互いに絶対的な優劣はなく(環境によって優劣は決まるから)、依存し合っているという事、自分以外の存在に、自分は依存してるんだと言うことを、考慮しなければならない。なぜなら、そちらのほうが、生き残る確率が高いからだ。結局は、自分主義に戻る。だが、逆説的だが、徹底的な自分主義になることが、対立を避け、共存を生み、互いの幸福を実現することのできる、『ユートピア』が完成するのだと、僕は思う。