理想と現実の狭間に
人間の生まれてきた意味はなんだろうか?
こういう哲学的な問いをぶつけると、とても退屈で、ややもすると眠くなってしまう人がいるだろう。
しかし、これは僕たちが生きる目標を失った時「物凄い力を発揮してくれる」。
不思議なもので、人間、その中でも特に大人と言われる人たちは、目標があると頑張れるものなのだ。ここぞという場面で踏ん張りが効く。火事場の馬鹿力とでもいうのか、勝負所で勝てるのである。結果、突き抜ける。
他者との差別化には、目標それも、確固たる信念が不可欠であったりするわけだ。
話を戻す。
人間が生まれてきた意味はなんであろう?
言い換えるならば
なぜ人間は生まれてきたのであろう?
この問いを自らにぶつけてみた時、始め僕には「果たしてこんな問いに答えがあるのか?あるとしても、こんな壮大な問いに僕が答えることができるのか?」と何度も震えた。
しかし、一端の大人であるが色々燃え尽きてしまった僕には、人生における目標が必要だった。だから、何百冊という本を読み漁り、考え、捻り出した。
問いが難しければ難しいほど
答えはシンプルな傾向にある。
つまり、この答えも例にもれないのである。
我々は「幸せを感じるために生まれてきた」のである。
なーんだ、そんなことか。
とガッカリするだろうが、ここからが難しい。なぜなら、「幸せは定義できないからだ」。
つまり、人によって幸せの形が異なる。ある人は子孫を残せればそれで幸福だが、ある人は美味しいご飯を食べれればそれだけで幸福であったりする。ある人は旅に出れれば幸せであり…といった具合にだ。
ラッセルの『幸福論』という古典も存在する。
まだ手にしていない人は、一度ぜひ読んでみてほしい。きっと幸せについて考える材料になるはずだ。
では、自分はどういう時に幸せなのか、考えてみてほしい。
ヒントは、欲求である。
欲求といえば、その昔、ブッダは人間が苦しむメカニズムに気が付いた。人間が思い描く「理想」と眼前に立ちはだかる「現実」との乖離に苦悩しもがき苦しむのである。
では、その「理想」とやらはどこからうまれてくるのであろうか?紛れもなく自身の内面から生じるものだ。つまり、それが「欲求」なのである。
では、その欲求が叶う、実現したらどうであろうか?人は喜ぶであろう。自分がしたいと思ったことが実現するのだ。理想が現実になる。つまり、理想と現実の乖離が限りなくゼロになるのだ。
その時、人は幸福を感じる。意識してるにせよ無意識にせよ、人の内側から生じる欲が満たされる時、人は幸せになる。
そして、幸せは人を豊かにしてくれる。
豊かな人は、精神的に余裕がある人だ。
自分に余裕がない人間は、その余裕のなさからくるストレスを、別の人間に押し付けようとする。
一方で、余裕のある人間は、その溢れ出る余裕から来るエネルギーを、別の人間に与えることができる。
…
さあさあ話しは飛びまくっているわけだが、考える時間は十分にあったはずだ。
答えは、マズローの五代欲求にある。
次回、人間の幸福を共に考えることにする。